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勝連城跡(かつれんじょうあと)

勝連城跡(かつれんじょうあと)のイメージ
勝連城跡(かつれんじょうあと)のサムネイル1

傾斜を利用し、美しく積み上げられた城跡

勝連城跡は、1972(昭和47)年5月に国指定史跡(指定面積131,774.68㎡)となり、2000年12月に『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の一つとして、他8つの文化財とともに世界遺産登録が正式に決定した。本城跡に対する興味や関心が高まり、近年来訪者も増加している。城跡は、昭和52年度より保存修理事業に伴い、発掘調査が実施され現在も継続中である。平成元年度までに一の曲輪から三の曲輪の調査をほぼ終了し、四の曲輪の調査へ移っている。

■勝連城跡の歴史

勝連城は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利が住んでいた城として有名である。城は、沖縄本島の中部勝連半島の根元に位置する丘陵上に築かれている。一の曲輪(くるわ)からは、北は金武湾を囲む北部の山々やうるま市の離島を望むことができ、南は知念半島や久高島、護佐丸の居城であった中城城跡が一望できる景勝地になっている。勝連城跡の標高は約60m~98m。総面積は11,897㎡。城壁は、自然の地形を巧みに利用しながら、石灰岩の石垣をめぐらせている。北西の最高部から一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と各平場が階段状に低くなり、再び南東側の東の曲輪で高くなっている。城が立地しているこの場所一帯は、長い間人々が活用してきた土地である。城跡の崖下からは、貝塚が発見され、先史時代後期末から古代人の生活地として利用され、13世紀前後より城塞としての体裁を整えたと考えられている。正確な記録はないが、勝連城には10代の城主がいたとされる。口碑伝承では、初代城主は英祖王系・大成王の5男(勝連按司)であったと伝えられている。3代目の勝連按司の娘は、のちの中山王察度に嫁入りしている。三山が統一してからは、尚巴志の二男尚忠の妃に勝連按司の娘を迎えるなど王府との関係をもつようになった。9代目の茂知附按司は、圧政を敷き、酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利によって倒される。阿麻和利が按司になってから勝連はますます栄え、6代国王尚泰久の娘、百十踏揚を嫁にする。1458年、阿麻和利は護佐丸を討ち首里城に攻めあがるが敗れ、逆に首里軍に攻められて落城し、勝連城も廃城となったといわれている(護佐丸・阿麻和利の乱)。その後、16世紀まで何らかのかたちで使用されていたようである。「おもろさうし」には、当時の勝連の様子や阿麻和利のことをよんだ詩が残され、勝連の繁栄ぶりが鎌倉や京都にたとえられている。明治の頃までは、城を取り囲む石積みがよく残っていたようであるが、大正から昭和にかけての採石により、石積みのない城にかわった。基礎部分はかろうじて遺存する。勝連城の考古学的な発掘調査は、1960年に始まり現存まで続けられている。これらの調査により、城の建物に関することもわかってきた。一の曲輪からは瓦葺きの掘っ立て柱建物が確認され、唐草模様の石材が発見されたことから、城門はアーチ式の門があったことがわかっている。曲輪の中央にはタマノミウジと呼ばれる御嶽がある。二の曲輪からは、横17m、縦14.5mの大きさの殿舎跡がみつかり、近年の調査から、瓦葺きであった可能性が高くなっている。二の曲輪の北側には、ウシヌジガマと火の神がある。三の曲輪は、儀式を行う広場的役割をする場所と考えられている。曲輪の下層からは、古い時代の竪穴式住居跡やすり鉢状の遺構が見つかり、南東側の石積み付近からは幼児の人骨が発見されている。四の曲輪は、城のなかで最も低い位置にあり、南風原御門(ハエバルウジョー)、西原御門(ニシハラウジョー)のアーチ式の門があったと伝えられている。曲輪内には5カ所の井泉がある。東の曲輪は、勝連城の最も最南端に位置し、別名西原城ともいわれる。四の曲輪、東の曲輪は現在調査中のため、詳細は分かっていない。勝連城からの出土遺物は豊富で、特に元染付を含む中国産の陶磁器が大量に出土している。その他に、東南アジア産の陶磁器類、朝鮮の陶磁器、大和系の瓦が出土しており、勝連城が一時期海外貿易の拠点となっていたことが分かる。他には、土器や貨銭、戦闘具関係、貝製品、食料残滓関係など多種多様である。

[引用]
勝連城跡公式ホームページ 世界遺産 World Heritage Katuren Castle Remains
・勝連城跡とは
http://www3.ocn.ne.jp/~ktm/

勝連城跡の歴史

■勝連城に関係する人物

阿麻和利(あまわり)
阿麻和利についての言い伝えはいくつかあるが、一説では北谷間切(ちゃたんまぎり)の屋良村(現嘉手納町)の百姓の子といわれている。幼名を加那(カナー)といい、10才まで歩くことも出来ないほど身体が弱く山に捨てられた。加那は山でクモが巣を張るのを見て、漁に使う打ち網の作り方を発明したと言われている。 勝連にたどり着いた阿麻和利は茂知附按司に召し抱えられる。茂知附按司は圧政を敷き酒に溺れたため、人々の信頼の厚い阿麻和利によって倒される。若くして阿麻和利は勝連の10代目の按司となった。阿麻和利は人々から慕われ、海外貿易により力をつけた。時の琉球国王尚泰久は阿麻和利に自分の娘百十踏揚を嫁がせる。

護佐丸(ごさまる)
1416年尚巴志の北山討伐に加わり、北山監守となって座喜味城に移る。その後、阿麻和利や他の中山の按司を見張るため中城城に移ることになる。しかし、1458年阿麻和利に攻められ自害する。護佐丸は名築城家として知られ、座喜味城跡や中城城跡を現在のかたちにした。両城跡とも世界遺産として登録される。

百十踏揚(ももとふみあがり)
百十踏揚は6代国王尚泰久の娘として生まれ、政略結婚で阿麻和利に嫁ぐことになる。百十踏揚は阿麻和利の計略を知り、付き人の大城賢勇と共に首里に逃げ帰る。阿麻和利は大城率いる首里軍に敗れる。その後百十踏揚は大城賢勇に嫁ぐが、大城も王府の内乱で亡くなる。百十踏揚は玉城(現南城市)に逃れ、ひっそりと余生を送ったと言われている。

察度(さっと)
察度は、奥間大親(おくまうふや)と天女の間に生まれたと伝えられている。察度は、勝連按司の娘が誰とも結婚しようとしないという話を聞き、勝連城を訪ね娘に求婚する。他の者たちは貧しい察度との結婚をあざ笑ったが、娘は察度が他の男と違うことを感じ取り、察度と一緒になった。察度は貧乏人だったが、畑には金塊がたくさんころがっていた。娘はこの金塊の価値を察度に教え、日本の商人から鉄を買い入れ、農民達に分け与えた。民衆達の為につくした察度は、その後中山王となる。


[引用]
勝連城跡公式ホームページ 世界遺産 World Heritage Katuren Castle Remains
・勝連城跡とは
http://www3.ocn.ne.jp/~ktm/

●Gallary

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